《僕と新日本プロレスと》新日本プロレスのブログ

主に80年代、90年代の新日本プロレスのアングル、名言を書いたブログです。

《目次》

記事が多くなってきたので、目次を作ってみました。活用して下さい。

燃える闘魂 アントニオ猪木

2022年10月1日 プロレスラーのアントニオ猪木さんが肺炎のため、亡くなられました。79歳、肺炎だったそうです。

 

1943年(昭和18年)2月20日生まれ。13歳で家族とともにブラジルへ渡り、コーヒー農場などで働く。現地の陸上競技大会の砲丸投げで優勝した際、ブラジル遠征中だった力道山にスカウトされプロレスの道へ。日本プロレス入りし。60年9月30日、プロ野球からプロレスに転向したジャイアント馬場さんと同日デビューを果たし、62年からリングネーム「アントニオ猪木」を名乗る。

 

米国への武者修行、日本プロレスからの離脱、東京プロレスの旗揚げ、日本プロレスはの復帰、追放を経て、71年に女優の倍賞美津子と結婚(後に離婚)。

 

72年に新日本プロレスを立ち上げ、その後プロレス全盛時代を築いた。76年6月のボクシング世界ヘビー級王者・モハメド・アリとの「異種格闘技戦」は注目を浴び、世界中にテレビ中継された。

 

タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアント、そして、ハルク・ホーガンとの舌出し失神事件。

数々の名勝負で、僕たちに夢を与えてくれました。

 

また、全日本プロレスジャイアント馬場とのライバル関係、ストロング小林ラッシャー木村との熱い日本人対決、語りだすときりがありません。

また、藤波辰巳長州力前田日明などの優秀な後継者も育てました。

また、ひとつ、昭和の時代が終わりました。

心よりご冥福をお祈りします。

本当にありがとうございました。

イノキ、ボンバイエ


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昭和の新日本プロレスラーランキング《5位〜1位》

今日は、僕の好きな昭和の新日本プロレスのレスラーの続きとなる5位〜1位まで、書いていきたいと思います。

みなさんも「このレスラーが好きだった」などコメント頂けると嬉しいです。

 

5位 前田日明
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まずは、「新格闘王」前田日明です。

前田日明といえば、UWFやリングスをイメージしますが、新日本プロレス時代は、バリバリのプロレスラーでした。アントニオ猪木が、自分の後継者の筆頭と考えていたくらい、プロレスラーとしての素質はあったのだと思います。

しかし、プロレスラーとしての資質がある人間は、他レスラーの思う通りにはいきません。

前田日明もその性格により、新日本プロレスを飛び出す事になってしまいました。

型にはまったプロレスラーなんて見てて面白くないのも確かですよね。

第一次UWF崩壊後に戻ってきた際は、藤波辰巳との名勝負や、古舘伊知郎に世紀の大凡戦と言わしめたアンドレ・ザ・ジャイアントととの不穏試合、「新格闘王」の称号を得たニールセンとの異種格闘技戦。そして、最後の試合となる長州力へ顔面蹴撃事件件まで、約2年という短い期間でしたが、新日本プロレスを盛り上げてくれました。

リングスでなくて、プロレスラーを続けていたとしても大成功したのではないでしょうか。

 

4位 藤波辰巳
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そして、4位は、「炎の飛龍」藤波辰巳です。

藤波辰巳と言うプロレスラーを評価するのは、なかなか、難しいのかも知れません。ただ、間違いなく軽量級のプロレスを確立させたレスラーであることは間違いありません。

彼の繰り出す技にはドラゴンという呼び名が付き、ファンからも愛され、坂口征二と並んで、新日本プロレスを守ってきたプロレスラーの一人だと思います。

最後まで、プロレスラーとしては、No.1にはなれなかったイメージがありますが、相手を輝かせるプロレスが上手かったと思います。長州力もきっと藤波辰巳がいなかったら、ここまでブレイクすることはなかったでしょう。

そういう意味だと、 最優秀助演男優賞と言う言葉がピッタリなプロレスラーです。

 

3位 長州力
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ここから、ベスト3になります。3位は「革命戦士」長州力です。アマレスオリンピック代表から鳴り物入りで、新日本プロレスにやってきた長州力ですが、長い間くすぶっていました。

それが、藤波辰巳へのかませ犬発言以降、飛ぶ鳥を落とす勢いで、プロレス界を席巻していきました。

変わるきっかけ、当時の彼になにがあったのか、それは誰にも、本人にも分からないかも知れません。当然、オリンピック代表として、実力はあるので、くすぶっていた何かが爆発しただけ、当然の結果なだけかも知れません。

例えるなら、丁度いいタイミングでワインの栓が空いて、みんなが美味しく飲むことが出来た。ということだと思います。これは、早すぎても、遅すぎてもうまく行かなかったのだと思います。まさに時代に上手く乗ったのでしょう。

 

2位 タイガーマスク佐山聡
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そして2位は、みんな大好き初代タイガーマスクです。1位にするか迷ったくらいに素晴らしい昭和のプロレスラーだと思います。

タイガーマスクとしての実働は、2年ちょっとでしたが、子供だった僕の記憶の中に鮮明にその姿が思い描けます。

《1981年4月23日 蔵前国技館 タイガーマスク VS ダイナマイト・キッドのデビュー戦から、1983年8月4日 蔵前国技館 NWA世界ジュニアヘビー級選手権 タイガーマスク VS 寺西勇まで》僕がプロレスにのめり込むきっかけとなったプロレスラーです。

その後、色々な姿でリングには上がっていましたが、やっぱりあの頃(初代タイガーマスク時代)の佐山聡が、僕は一番だと思います。

 

1位 アントニオ猪木
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僕の好きな昭和のプロレスラー第1位は「燃える闘魂アントニオ猪木です。

本当に色々なドラマを僕たちに見せてくれました。

どのシーンが一番記憶に残っているか?そう思って考えてみました。

IWGPでの舌出し失神事件や、長州・藤波・前田達との新旧世代交代のシーンを思い出すのですが、どちらも主役は猪木ではなく、ホーガンや長州力です。

そういう意味だと、僕はアントニオ猪木の全盛期を知らない世代なのかも知れません。

それでも、1位にしてしまうのは、それだけ昭和プロレスのカリスマ的な存在だったのだと思います。

昭和プロレス=アントニオ猪木と言っても過言ではないでしょう。

プロレスでは誰もアントニオ猪木には敵わない。

これは当時のプロレスラー誰もが口にする言葉です。ファンを魅了するなにかを持っていたプロレスラーだったのだと思います。

昭和の新日本プロレスラーランキング《10位〜6位》

今日は、僕の好きな昭和のプロレスラーをランキング形式で書いていきたいと思います。
昭和の新日本プロレスのレスラーに絞って書いていきます。

みなさんも「このレスラーが好きだった」などコメント頂けると嬉しいです。

10位 藤原喜明
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まずは「関節技の鬼」と呼ばれた藤原組長です。
この写真は、第一次UWFを解散して、新日本プロレスへ戻ってきたときのものです。
新日本プロレスへUターンしてきたUWF軍団、UWFメンバーだけで、リーグ戦を行い優勝者が、猪木への挑戦権を得られるというものでした。
そのリーグ戦に前田日明を制して見事優勝した藤原喜明、一番脂が乗り切っていた時期ではないでしょうか。
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猪木には敗れてしまいますが、試合後、「アントニオ猪木なら何をやっても許されるのか」と前田日明が暴れまくったシーンは今でも覚えています。とても熱く迫力があるアングルでした。

9位 坂口征二
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次は、「世界の荒鷲」こと坂口征二です。
設立当初の新日本プロレスが潰れることなく、なんとか持ちこたられたのは、坂口が日本プロレスから新日本プロレスへ移籍したからだと思います。
坂口の新日本移籍とともに、NET(テレビ朝日)の新日本プロレス放映も決まりました。
しかし、坂口征二が脚光を浴びたのは、新日本初期の頃だけで、アントニオ猪木から一歩下がり、二番手となることを受け入れました。
自分の役目を理解し、裏方に徹したお陰で、新日本プロレスは無事に50周年を迎えたのではないでしょうか。
この写真は、猪木との黄金コンビとして、ゴッチ・テーズ組と対戦した時のものです。

8位 木村健悟
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8位にしたのは「稲妻戦士」木村健悟です。
この写真は、1985年のIWGPタッグリーグ戦で、藤波辰巳と組み、猪木・坂口組を破り、見事に初代IWGPのタッグ王者となった時のものです。
藤波辰巳が猪木から初めてフォールを奪ったインパクトのある試合です。
ブロディ・スヌーカ組が決勝戦をボイコットした為、それをかき消す様なインパクトのある試合が必要でした。
見事にその大役をやってのけたこの試合は、木村健悟のベストマッチと言えるのではないでしょうか。
その後はなかなかパッとしませんでしたが、昭和の新日本プロレスを盛り上げたレスラーの一人であることは間違いありません。

7位 マサ斎藤
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マサ斎藤は、アマレスの日本代表として、東京オリンピックにも出場した選手です。
明治大学坂口征二の同期でもありました。新日本プロレスでは、長州力率いる維新軍の名参謀としての印象が強いです。
この写真は、猪木との巌流島での対決のものです。長らく猪木のライバルとして、活躍していました。
海賊男やTPG等の暴動事件にも絡んでおり、それだけ、新日本プロレスの中心で活躍していたレスラーだったと思います。
バックドロップの名手で、マサ斎藤のバックドロップは本当に綺麗だったと思います。

6位 橋本真也
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6位にあげたのは、闘魂三銃士のひとり「破壊王橋本真也です。
橋本真也は、昭和ではなく、平成に輝いたのレスラーと呼ぶべきですが、どうしても書きたかったので、あげてしまいました。
トニー・ホームとの戦いや、天龍源一郎長州力との対戦は、どの試合も熱くさせてもらいました。
小川直也との抗争も面白かったと思います。
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橋本真也は、新日本を語る際、外すことが出来ないレスラーだと思います。

さて、5位からは、昭和の新日本プロレスの顔と呼べるレスラー達が連なります。

次回へ続く。

長州力が新日本プロレスを離脱

選手・フロントの離脱を招き、数々の禍根を残したクーデター事件。その流れのなか、1983年11月に新日本を退社した元営業部長・大塚直樹(クーデター派)が「新日本プロレス興行」を設立する。
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この会社がUWFと同じく、のちに新日本と深い因縁を残すことになる。新日本サイドは、新日本プロレス興行を兄弟会社として認識し、新日本の興行を専門に行うと考えていた。しかし、大塚はこの会社を純粋な興行会社ととらえており、他団体の興行だろうと「オファーが来れば受ける」と目論んでいた。

そんな状況下、全日本プロレスが大塚に接触、業務提携の話が進む。新日本サイドにしてみれば、これは裏切りとも言える行為であり、何とかこれを阻止するべく交渉を重ねたが決裂。新日本プロレス新日本プロレス興行に対して取引契約の解除を通告する事態に至った。これに対する報復として、1984年8月9日、大塚は新日本との絶縁、及び選手の引き抜きを宣言する記者会見を開き、両者の関係は決定的にこじれてしまった。

新日本プロレス興行サイドは長州力率いる「維新軍」に接触、引き抜きを画策。新日本は選手の慰留に努めたものの、長州ほか維新軍のアニマル浜口小林邦昭谷津嘉章、そして寺西勇の5人が、新日本プロレス興行へ移籍することとなった。その後、キラー・カーンマサ斎藤らも合流し、最終的には3人の選手が集結。新日本プロレス興行は長州の個人事務所を合併する形で「ジャパンプロレス」に名称を変更した。ジャパンプロレスは、全日本プロレスと業務提携し主戦場として継続参戦することになる。しかし、次第に大塚ら経営陣と選手の間に、意見の対立から軋轢が生じる。
1987年3月、長州が一方的に全日本との契約を解除する発表を行ったのをきっかけに、ジャパンプロレスは決定的な内部分裂を迎え、最終的に同年5月、長州は正式に新日本へと出戻ることとなった。

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「外国人選手引き抜き」戦争

81年、全日本プロレスとの仁義なき引き抜き戦争が勃発した年である。

5月7日、京王プラザホテルにおける『第4回MSGシリーズ」前夜祭の席で新間氏が全日本のトップ外国人、アブドーラ・ザ・ブッチャーIWGP参加を発表。翌8日、川崎市体育館にブッチャー本人が出現したことで戦争の火ブタが切られた。

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川崎市体育館に現れたブッチャーは「IWGPのチャンピオンベルトを取るためにやってきた。必ず猪木を倒してベルトを取る」と挑発すると、猪木は「私は今までブッチャーのファイトなど認めていなかった。でもこうして戦いの場に出てきた勇気と行動力は称えます」と歓迎しながらも「ただ、彼が今までと同じようなファイトをしている限り、私には絶対勝つことは出来ない」とやり返した。

このブッチャー引き抜きに先駆けて、4月7日に新日本事務所で記者会見を行った新間氏は、全日本のジャンボ鶴田、タイガー戸口(キム・ドク)、国際プロレスラッシャー木村アニマル浜口IWGP参加を呼び掛けている。
戸口は、この記者会見前日に全日本に辞表を提出。5月1日、ヨーロッパに発つ前に羽田空港でフリーとしてIWGPに参加することを表明した。

これらの動きに激怒したジャイアント馬場は、新日本の2大外国人エースであるタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンの引き抜きを画策。

以降、新日本も全日本もテレビ中継の顔ぶれが日に日に変わっていくこととなる。

シンやブッチャーは、この移籍により輝きを失ってしまい、また、外国人選手のギャラの高騰にも繋がり、この引き抜き戦争は、日本プロレス界にとってあまりいい結果にはならなかった。
しかし、スタン・ハンセンの移籍だけは大成功となった。

1981年末の世界最強タッグリーグ戦へ乱入という形で登場したスタン・ハンセン。
場外でテリー・ファンクへウエスタンラリアートを敢行し、ブルーザー・ブロディジミー・スヌーカ組を優勝へと導いた。

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また、1982年2月4日東京体育館で行われたジャイアント馬場との初対決では、プロレスラーとして下り坂だった馬場を復活させることとなり、ジャイアント馬場の強さを再認識する試合となった。
試合結果は、12分39秒 両者反則だったが、試合内容は、ジャイアント馬場の圧勝だった。

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この時、馬場は44歳、対するハンセンは33歳。

その後、スタン・ハンセンは全日本プロレスでNo.1外国人選手となり、長く日本のマット界で活躍することとなる。

今となっては、この引き抜き戦争は、ジャイアント馬場全日本プロレス)の圧勝に終わったと言える。

「猪木VSアリ」世紀の一戦

1976年6月26日土曜日に行われた猪木対アリ戦の当時の評価は 「世紀の凡戦」だったと言う。確かに今、見てみても退屈な試合に見えてしまう。

そもそも、この対戦が実現するきっかけとなったのは、1975年3月にアリが当時の日本レスリング協会の八田一朗会長に「100万ドルの賞金を用意するが、東洋人で俺に挑戦する者はいないか」と発言したことである。

無論これはアリお得意のリップサービスだったのだが、そこに猪木が挑戦を表明したのである。世間はこれをまともにとらえず、アリも一度は挑戦を受諾するも、マネージャーたちがそれを撤回するなど、世界的に知名度の低いレスラーとの対戦を回避しようとする動きをみせた。しかし、猪木がアメリカやヨーロッパのマスコミにアピールしつづけたことで、その反響が大きくなり、アリ側もこれを受けざるを得ない状況となった。1976年3月25日に調印式が行われ、対戦が正式決定。

当初、アリはこの試合をエキシビジョンマッチだと認識して来日したという。しかし、エキシビジョンでないことがわかると、アリ側はルールに対してさまざまな制約を課し、「要求をのまなかった場合は出場しない」と脅迫。猪木サイドはこれを受諾、その結果、投げや関節技はなし、立った状態での蹴りはなしなど、猪木にとって非常に不利なルールで試合が行われることになった。

当日、新間は猪木に鉄板入りのリングシューズを差し出して「アリのグローブは通常使われる8オンスでは無く、その半分の4オンスのようだ。しかも普通は試合前に控え室で相手にバンデージを見せ、問題が無ければ相手がサインをしてグローブをはめるのだが、アリはこれを拒否している。どうもバンテージに石膏を注射しカチカチに固めたようだ。こっちもシューズに鉄板を入れましょう」と進言した。
しかし、猪木は、「自分のブライドを傷つけるような姑息なことはしたくない。アリがグローブに石膏を入れているのならそれはそれでいい。俺は絶対にそんなことはしない」
ときっぱり言い放って、新間のアドバイスを蹴ってしまう。

いざ試合がはじまると、猪木はアリの足元にスライディングを敢行し、以降も寝た状態からアリの足を蹴りつづけた。対するアリは、猪木に立って来いと挑発するも、試合は膠着。そのまま既定のラウンドが過ぎ、引き分けに終わった。

試合後の猪木の顔を見るととても満足そうに見えた。猪木の中には、大一番をやり終えた達成感があったのではないだろうか。

アリは負ける訳にはいかなかった。もちろん、猪木も負ける訳にはいかなかった。試合後の二人が何人にも理解し得ない満足感を共有しても何の不思議もない。

猪木のおなじみのテーマ曲「猪木ボンバイエ」は、アリがあの試合の後、クランクインした主演映画「ザ・グレイテスト」の主題歌である。新間がこの曲を聴いて感動し、アリに「これを猪木のテーマ曲として使わせて欲しい」と頼んで快諾してもらったという曲だ。

猪木はこの曲を聞く度に「俺はアリといつも一緒にリングに向かい戦っているんだ」という気持ちになっていたのではないだろうか。それほど猪木にとってアリはれられない一戦だったはずだ。この一戦により、猪木はかつて体験したことのない借金を背負う羽目になり、アリはその後のボクシング人生が狂うほどのダメージを足に受けたが、お互いに誰も成し得なかった「未知への戦いに勇気を出して戦った」という満足感があったのではないだろうか。

試合終了後、猪木は控え室に誰一人入れず、泣いていたと言う。

当時は、かみ合わない試合内容から批判が相次いだ。しかし、現在では総合格闘技の原点として評価される一戦となっている。

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新日3大暴動事件《たけしプロレス軍団》

1987年12月27日 両国国技館 87イヤーエンド・イン・国技館
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kent-wrestling.hatenablog.com

この3大暴動事件のなか、最大の暴動と呼ばれるのが、1987年12月27日の両国国技館大会で起きた、たけしプロレス軍団、通称TPGを原因とした暴動である。

もともと東スポ紙上でTPGの設立を発表したビートたけしマサ斎藤が接近し、打倒猪木で一致団結。同大会にビッグバン・ベイダーを刺客として送り込み、藤波辰巳木村健吾VSマサ斎藤ビッグバン・ベイダー戦が行われることが発表されていた。
しかし、当日、ビートたけしガダルカナル・タカ、ダンカンなどがリング上に現れ、ベイダーと猪木の直接対決を要求。猪木はこれを承諾し、メインで行う予定であった猪木VS長州戦を、猪木VSベイダー戦へと変更した。これに観客が激怒。そのため、急遽ベイダー戦の前に猪木VS長州の特別試合が行われたものの、セコンドの馳が乱入し長州の反則負けとなる不透明決着。挙句、ベイダー戦では、あっさりと猪木がフォール負けという事態になり、最終的には升席や椅子席が破壊されるなどの、大規模な暴動へと発展してしまったのである。

誰のアングルだったのか?
どこで歯車が狂ったのか?

1987年12月27日両国国技館での「87イヤーエンド・イン・国技館」は「87パニック・イン・国技館」とまで形容された。超満員札止めの1万1090人をのみ込んだこの日、メインイベントでは猪木のIWGP王座に長州が挑戦する3年ぶりの一騎打ち、セミに藤波&木村VS斎藤&ビッグバン・ベイダー戦が予定されていたが、ビートたけしたけし軍団率いるTPG(たけしプロレス軍団)が、対猪木の刺客としてベイダーを率いてセミのリングに登場したところでハプニングが起こる。
TPGの誕生は、東京スポーツで連載を持っていたビートたけし桜井康雄氏が東京・六本木の
全日空ホテルで猪木と引き合わせたことによる。

「あの年のいつ頃だったか忘れましたが、控室で私と猪木さんのみで打ち合わせをしていたとき、たけしさんに会ったことを猪木さんが言いました。『アングルもプロレス内だけの人間が考えるだけではなく、ああいうアイデアに溢れた人の意見も反映させる必要があるな』と言ったのです。プロレスの関係者だけでつくるマッチメイクに、猪木さんなりの限界を感じていたのかもしれませんが、私は違和感を覚えた。その頃、私はケーフェイに凝り固まっていましたので、『部外者にマッチメイクさせるのはとんでもない』と思った。私が1983年8月にマッチメイカー就任を猪木さんに命じられたとき、『マッチメイカーという立場があること自体、ケーフェイだぞ』と言われた。でも、たけしさん云々の猪木さんの言葉には『そうですか』と言うしかなかった。しばらくして、TPGがマスコミで話題となり、私は『猪木さんが言っていたのはこれか』と思いました」

マッチメイカーの高橋氏に具体的な相談はなく、TPGは水面下で進行した。しかし、お笑いタレントのプロレスへのかかわりに辟易していたファンは、拒否反応を示す。というのも、大阪での暴動事件直後の4月、従来の「ワールドプロレスリング」が「ギプUPまで待てないワールドプロレスリング」に新装され、試合会場と山田邦子らお笑いタレントをスタジオに集めたバラエテイという二元中継を見せられ、散々に懲りていたからでもある。

TPGの参謀役を務めるマサ斎藤と、たけし軍団ガダルカナル・タカ、ダンカンがセミのリング上で猪木にベイダーとの一騎打ちを直訴。猪木が登場して、この訴えを聞き入れ、リング上からカード変更を観客にアピール。斎藤&ベイダーVS藤波&木村戦はベイダーが長州に代わり、この試合の後、猪木VS長州、猪木VSベイダー戦が行われた。

「控室では猪木VSベイダーで猪木さんが取られるという段取りで、猪木VS長州は最初から行う段取りにはなっていませんでした。当日、たけし軍団の挑戦を猪木さんがサプライズで受けたのは、ファンがワーッと喜ぶと思ったからでしたが、とんでもない。まったくの逆で大ブーイングだった。そういえば、控室でたけし軍団ガダルカナル・タカさんに「大丈夫でしょうか?」と不安気に言われましたよ。タカさんはそれ以前にも、両国のリングに猪木さんへの挑戦状を持って(同年12月4日)、ダンカンさんと一緒にリングに上がりましたが、帰れコールを浴び、プロレスファンが殺気立っていることを感じていた。私はタカさんに「セコンドが守りますから、心配しないで下さい」と言いましたが」

長州&斎藤VS藤波&木村戦は6分ほどで長州が木村を抑えて、試合を終了するも、試合開始から5分以上、止めろコールが響き、リングにはモノが投げ込まれた。

「猪木VS長州をやらなければ収まりがつかないから、混乱のなか、私は控室に行き、猪木さんと長州に試合をするよう頼んだ。アングルはリング上で指示する、とにかく早く上がってくれ、とお願いしました。どのタイミングで控室に行ったのかは記憶にないのですが」

ノンタイトル戦で試合は挙行。猪木が長州をダルマにし、高橋氏が馳浩に乱入させる指示を出
し、猪木の反則勝ちとしたが、つづくベイダーとの一騎打ちで猪木は一方的に攻め込まれ、3分弱で3カウントを奪われる。


カード変更、試合内容の物足りなさに試合後、消化不良のファン3000人は一時間近く経過し
ても帰らない。
猪木が収拾をつけるべく、リングに登場するも、マイクを通じて放った第一声はなぜか、「みなさん、ありがとうー!」。
続けて、「今度は長州、ベイダーと正々堂々と勝負します!」と言ったが、これぞ後の祭り、火に油を注ぐのたとえだった。ファンは暴徒と化し、椅子をはじめ館内の器物を破損する行動を始め、リングにはありとあらゆるモノが投げ込まれた。田中リングアナはリング上で土下座して謝罪し、事態の沈静化を図った。

「猪木さんが挨拶する前でしたか、『高橋さん、急いで帰ってくれ』と坂口さんから言われたのは。『混乱の原因はレフェリーにもある!』というファンの標的にもなるから、と心配してくれた。夜中、坂口さんから自宅に電話があり、『明日、ファンの代表だというのが事務所に来るから、俺が対応するよ。うまく話をしておく』と言うので、『審判部長の私も行きますよ』と言ったら、『冗談じゃない。高橋さんが来たらもめにもめて、収まるものも収まらなくなるから』と言われました」

第2回IWGP勝戦後の混乱と同様、坂口は高橋氏の身を案じたのだった。翌日、坂口はファン代表との面談で、フェンスアウトのルールの撤廃を要望され、了承した。

「『ファンの要望も少し聞いて、収めるより仕方なかった』と坂口さんから報告がありました。ファンの言い分を聞いて、ルールを変えたのには私としても言いたいことはありましたが、坂口さんも切羽詰まって、そうせざるを得なかったのか、と考えました」

国技館の椅子の破損は57脚、200万~300万円の弁償費用となり、国技館の使用自粛が相撲協会との話し合いで決まった。自園は1989年2月22日の興行まで、1年2カ月もの間続いた。1988年、年頭の「新春黄金シリーズ」における2月4日の大阪大会で、猪木VS長州のIWGP戦が実現。卍固めからのレフェリーストップで猪木が王座を防衛したが、内容は名勝負の評価
を受けた。両国での一件もあり、ファンもマスコミも注目したことが、両雄に好ファイトをもたらしたのは否定できないところだろう。

当時としては最悪のシナリオであったが、今となって思えば、懐かしい記憶である。

大会場で行われた試合でも「どんな試合だったっけ?」と時間の経過のなかでファンの記憶も確実風化してゆくものだが、3大暴動事件は今もってファンに語り継がれ、猪木の名前と共に名勝負ならぬ迷勝負として生々しい憎悪の記憶として残っている。これも猪木イズムのひとつと私たちは釈義するべきなのかもしれない。

新日3大暴動事件《海賊男》

1987年3月26日大阪城ホール INOKI闘魂LIVE PARTⅡ
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1987年3月26日に大阪城ホールで行われた猪木対マサ斎藤の試合に、謎のマスクマン「海賊男」が突如乱入。マサ斎藤と自身を手錠で繋ぎ、控室まで連行してしまうという事件が起きた。その後、マサ斎藤は試合に復帰したものの手錠で猪木とレフェリーを殴打し、反則負けになるという結果に。
この結果に納得できなかった観客が暴動を起こした。

1987年3月26日大阪城ホールでの「INOKI闘魂LIVE PART2」での猪木対マサ斎藤戦の時間無制限一本勝負は、長州率いるジャパンプロレス軍団の2年ぶりのUターンで実現した試合だったが、10分過ぎに海賊男が乱入してマサ斎藤に手錠をかけるという不可解な行動により25分34秒、マサ斎藤の反則負けとなった。

超満員1万3850人のファンはこの結末に激怒する。試合後もファン約3000人が会場に居残り、「金返せ!」「バカヤロー!」の激しい罵倒のコールの後、椅子を放り投げる、紙屑に火をつけるなど暴動を引き起こす修羅場と化した。


このときの海賊男が1981年にメキシコから新日本プロレスに留学し、新日本の所属となったブラックキャットことクロネコであったのは、高橋氏の著書「流血の魔術最強の演技〜すべてのプロレスはショーである〜」でも明らかとなっている。

同時に、アメリカのフロリダ州で海賊祭りのイベントを見た猪木が、試合のアングルに導入を決意し、自らもフロリダで武藤の試合に乱入、その後、海賊男は日本での試合でも二度乱入したが、こちらの正体は新日本の若手レスラーであったことも明かしている。

「橋本は海賊のコスチュームが入らないから、一度も乱入はしていませんが、コスチュームとシューズのサイズが合う蝶野ら若手に『よし、今日はお前が行け』と乱入させていましたね。海賊男のアングルは選手内で周知されていましたから、セコンド陣が海賊男の乱入を止めるようなことも当然しません」

海賊男乱入の理由はファンに明確に伝わらず、ファンの不評を買ったが、猪木はこのアングルになぜか固執した。猪木対マサ斎藤の記念イベントでの大一番でも挙行されることになり、高橋氏は猪木の意向に沿うアングルをつくる。クロネコ扮する海賊男はマサ斎藤の味方。マサ斎藤に加勢するため、まず猪木に手錠をかける。続いて片方の手錠をロープにかけ、猪木の身動きを完全に止めてしまう。そして、マサ斎藤と一緒に猪木を攻撃するという段取りだった。
この日の海賊男がなぜクロネコだったのか?これは気になるところだ。

クロネコの海賊男は、あの日だけです。今日はクロネコでなければ、という明確な理由があったわけではなく、「ネコちゃん、今日、行ってよ」という感覚でした。彼もプロレスラーですから、アングルを十分に理解し、失敗するなんて私も猪木さんも斎藤さんも想像していなかったのです。私が、斎藤さんとクロネコにアングルを伝えました。日本語と片言のスペイン語で。当時のクロネコは日本人のお嫁さんをもらい、日常的な日本語は一通りできていても、少し複雑な話になると理解はまだできていなかった。「コンプレンデ?(分かったか?)」と念押ししたら、「シー(了解)」と言ってくれましたが…」

さて、試合に乱入した海賊男は、マサ斎藤の右手に手錠をかけ自らの右手にも手錠をかけた。これに猪木は唖然。マサ斎藤は「バカ、俺じゃない、違うぞ」と言いたげな顔を見せるが、海賊男をブチのめすわけにもいかない。海賊男に繋がれたマサ斎藤は一旦、控室に引き上げる。猪木も、観客も状況がのみ込めず、場内は騒然。手錠の鎖を引きちぎった斎藤は、右手に手錠の輪をつけたまま、リングに戻ってきた。

「このとき、斎藤さんは私に「俺を蹴れ」と耳打ちしました。私は、一瞬で理解しました。アングルの軌道修正です。手錠を凶器に猪木さんの額をメッタ打ちにし、流血させる斎藤さんに私は注意を与え、それでも手発攻撃を止めない斎藤さんを私は蹴った。蹴りに怒った斎藤さんが、私をラリアットで吹っ飛ばして、私は斎藤さんの反則負けを取りました。アドリブでの対処も、結果として暴動が起こったので失敗でしたね」

言葉の壁が悲惨な結末を招いた。
これが真相である。


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当時の雑誌の「大阪暴動の元凶は新日の不手際?」と題した顛末記には、次のような一節が書かれた。

《海賊男はセコンドに制止されることもなくフェンス内に入り、すかさずリング上へ…。この行動ひとつ取っても実に不可解である。なぜセコンドは乱入者である海賊男を止めに入らなかったのか?海賊男の正体はレスラーであることは確実!ということはセコンド陣は海賊男の乱入を暗黙の了解で認めていたのか?リング上の海賊男にしてもそうである。持って来た手錠を斎藤にかけて控室に連行するという行動は、マサ斎藤アメリカでケン・パテラと不祥事を起こした事件の再現をファンに連想させよう!と仕組んだとしか考えられない。》

アメリカで起こした不祥事の再現と推測した記者の考えはなるほどと思った笑

この日の海賊男が日本語を理解したレスラーで、予定通りのアングル行われていたとしたら暴動は避けられていたか?

みなさんは、どうだったと思いますか?

新日3大暴動事件《長州力乱入》

1984年6月14日蔵前国技館|第2回IWGP勝戦
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kent-wrestling.hatenablog.com

1984年6月14日の蔵前国技館で行われた第2回IWGP勝戦で起きた通称「蔵前暴動」。
その優勝戦で猪木とホーガンが対戦し、2度の両者リングアウトの後、再延長戦で長州が乱入し、両者をKO。セコンドたちによってリング上に運び込まれた猪木が勝利を手にするという結果に観客が激怒し、暴動が発生した。

「猪木さんのアングル」に反対なんてできませんよ」ミスター高橋氏はそう語る。

抜群のプロレスセンスを発揮してきたアントニオ猪木が「舌出し失神KO事件」以降、ファンの気持ちを読み間違えるようになる。

その象徴が3大暴動事件だった。

新日本プロレスのファンにとって神であった猪木が、神から人間に引きずり降ろされ、不信任を突き付けられた屈辱がこの3大暴動事件であった。

いずれのリングでも猪木の試合を裁いたのは、ミスター高橋氏。それもマッチメイカーとして、猪木の意向を確認して試合のアングルを構成した。今日までに多くの報道で内幕が明らかとなっているが、高橋氏の述懐をもとに改めて考証してみよう。


「長州の乱入、海賊男乱入、TPG、すべて猪木さんお得意のサプライズのはずでしたが、ファンは受け入れなかった。私は、猪木さんのカリスマ性が衰えていったのを目の前で見ていたわけですね。あの長州の乱入の前までは、猪木さんが自分で試合のアングルを勝手に予定変更しても、結果的にはファンとテレビ局の反応もよく、興行的にも成功、と大当たりさせてきた。思えば、前年の第1回IWGP勝戦の舌出し失神KOから、猪木さんのサプライズをつくる感覚も狂っていった気がします。あの結末のために、長州を乱入させるという展開にせざるを得なくなってしまった」

1984年6月14日の第2回IWGP勝戦での長州乱入のアングルは、マッチメイカーの高橋氏が猪木に提案したものではなく、猪木から高橋氏に提案したものであった。

第2回IWGP勝戦ハルク・ホーガン対猪木戦は、「1年前に屈辱の舌出し失神KOを喫した猪木が、ホーガンをどう料理するのか?」という、全国のプロレスファン注目のリベンジマッチだった。入場前売り券は、2カ月前の発売日に即日完売。当日券800枚は試合開始4時間前の午後2時半に完売し、入場できないファンのために国技館内の相撲教習所の横に100インチのプロジェクターを用意して、約300人が日本初のクローズド・サーキット方式で試合を生観戦した。

「ホーガンはこの年の1月、WWFヘビー級チャンピオンとなって、猪木さんといえども、簡単にピンフォールやギブアップを奪うわけにはいかなくなっていた。猪木さんは2度の延長戦の末、辛くもリングアウト勝ちしてIWGPのベルトを巻く、というファンをハラハラさせるアングルを描いたわけです。辛くもリングアウト勝ちはいいとしても、長州を乱入させ、ホーガンにラリアットを見舞い、ホーガンが倒れている隙にリングに猪木さんが上がる点は私も『エッ、ちょっとそのアングルは…』と思いましたが、オーナー社長でトップ選手の猪木さんにノーは言えませんでした」

猪木のアングルを高橋氏は、ホーガンと長州に伝える。
ホーガンが了承した後、高橋氏は長州に「メインの試合にちょっと絡んでくれる?」と頼んだ。
長州は「エッ、どんなふうにですか?」と。
アングルを伝えると、しばらく長州は考えてから、「これ、高橋さんがつくったの?」と言いました。「いや、猪木さんだよ」と伝えると、「そうですか。じゃあ、やるより仕方ないですね」と覚悟を決めたようでした。ふて腐れてまではいないけれども、明らかにやりたくない表情でした。社長の猪木さんの意向となれば、長州としてもやはり逆らえない。もし私がつくったアングルだったら、反対したはずです」

ファンが猪木に何を望んでいるかは、猪木よりも長州のほうが感じていたのだろう。
かくして、延長、延長、長州乱入の不透明な勝敗の行方に観衆は激怒。
リングにはモノが投げ込まれてキャンバスを覆い尽くし、花道の時計は破壊され、「金返せ!」「インチキだ!」の怒声が響くパニック状態に陥った。
暴徒と化したファンの鎮圧に蔵前署から警官18人が駆けつけた。それでも帰ろうとしない約1000人のファンは、国技館の中庭で決起集会を開き、坂口征二らに責任追及の詰問をするなど強硬な姿勢を見せた。「猪木神話崩壊」「ファンが初めて猪木にノーを突き付けた」という歴史的な日となり、2年続けて「呪われたIWGP」と呼ばれることになった。

「暴動が起こる直前でしたか、坂口さんから『控室に戻って、なるべく早く帰って欲しい。高橋さんがリングにいたら、揉めることになり収まらなくなる。俺が収めるから』と言われました。私はホーガンを含めて外国人レスラーを会社のバスに乗せ、京王プラザホテルに送り届けた。横浜の自宅へ帰ったのは日付も変わる頃でしたが、坂口さんから電話がありました。なんとかあの場は収めた、と。私が坂口さんから報告を受けていた頃、長州は六本木で泥酔するまで酒を飲んでいた、と後で知りました。苦い酒だったでしょう。このアングルがきっかけで、長州は猪木さんに愛想をつかし、新日本から離脱するわけです」


当時の専門紙誌は、「長州はなぜ、リング下にいたのか?」と検証し、ファンは「IWGPという権威ある王座を賭けた一戦にもかかわらず、延長、延長、再延長のていたらくに長州が激怒してたまらず乱入したのではないか」と真剣に議論したが、真相は長州が猪木の指示に従っただけだった笑

金曜日夜8時 新日本プロレス

【金曜日の夜8時】

このシチュエーションだと、みなさん、どんな事をイメージしますか?

サラリーマンや学生なら、1週間が無事に終わって、休日前のまったりとする時間帯でしょうか?

このご時世だと金曜の夜は、飲み会だ!とは、なりませんが、少し前なら、街へ繰り出して、友達や恋人と遊び回る時間帯だったかも知れませんね。


【金曜日の夜8時】僕の場合は、今でも新日本プロレスアントニオ猪木)をイメージしてしまいます。そんな人もまだまだいらっしゃるのではないでしょうか?

そんなこと考えているのは、僕だけですか?

80年代土曜はまだ休日ではなく、僕ら小・中学生は、半ドンではありましたが、明日の学校の準備や宿題に追われていました。

そんな慌ただしいなか、ご飯を食べて、お風呂に入り、ホッとひと息ついてテレビをつけるとそこには、タイガーマスクが飛び跳ね、長州力藤波辰巳にかみつき、アントニオ猪木ラッシャー木村ハルク・ホーガンと名勝負を繰り広げていました。

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僕ら子どもたちは、ブラウン管のプロレスラーに憧れの眼差しを向け、その勝敗の行方を固唾を飲んで見守っていました。

そして、8時50分最後にアントニオ猪木が延髄斬りで、対戦相手から3カウントを奪うと、その結果に満足し、金曜日の夜は無事に終わりを告げます。

「あの頃は良かった」

と言う言葉だけでは表現できない「なにか」が、あの時代のあの時間帯には、確かに存在していました。

その幻影を今も求めてはみるものの、プロレスが変わったのか、僕が変わってしまったのか、当時の「なにか」を見つけることは出来ない。

そして、もう一度その「なにか」を求めて、僕は80年代のプロレスを何度も何度も見返すのである。