1983.7.7 タイガーマスク VS 寺西 勇《虎ハンター小林邦昭がタイガーのマスクを剥ぎ取った》
80年代から90年代の新日本プロレスは、色々と面白いアングル・名勝負がありました。
僕の見た名勝負や印象に残った新日本プロレスのアングルやイベントについて書いていきたいと思います。
皆さんの新日本プロレス名勝負はどの試合だと思いますか?
宜しければ、コメント欄に記載お願いします。
今日は、みんな大好き初代タイガーマスクの試合について書いていきたいと思います。
サマー・ファイト・シリーズ 1983年7月7日 大阪府立体育会館 NWA世界ジュニア・ヘビー級選手権 タイガーマスク VS 寺西 勇
この試合は、名勝負というか、試合後のゴタゴタが面白かったので、書いています。
リングサイドには虎ハンター小林邦昭が陣取っています。試合開始前から、何か起きそうな雰囲気がありますね。
試合の方は、開始早々タイガーのキック攻撃が決まります。この頃はタイガーマスクの後半期でかなり格闘技色の強い試合になってきています。
それでも、やっぱりタイガーの四次元殺法は健在です。トップロープからのミサイルキック、場外へ逃げた寺西勇にトペスイシーダを敢行。
場外でもみ合う二人に、小林邦昭が手を出し、寺西勇を助けます。助けると言っても背中を押してリングインさせただけですが…
小林が手を出したぞと、レフリーにアピールするタイガー。そして、小林へビンタをするタイガーマスク。
タイガーマスクと小林邦昭が、そうこうしていると、寺西勇がトップロープからのプランチャ攻撃。これは、迫力満点でした。怪我を恐れない勇気ある攻撃ですね。
最後は、ロープ越しのローリングクラッチホールドでカウントスリー。
そして、ここからが本番です。虎ハンター小林邦昭が乱入し、タイガーのマスクを剥ぎにかかります。あらわになるタイガーの素顔。
その時、客席からマスクが投げ入れられました。
何かを破り捨てている小林の横をマスクが飛んでいきます(笑)
そのマスクをつけたタイガー。なかなか、カッコイイマスクですね。
場外では、新間寿からベルトを奪い取ろうとする寺西勇と小林邦昭。しかし、新間は離しません。
油断したミスター高橋からベルトを奪いそのまま逃走する小林邦昭。
最後、は?!
という感じのタイガーマスク(笑)
この試合は新日本プロレスワールドで観ることが出来ます。
昭和プロレスファンの方は、登録して見てみてはどうでしょうか。
新日本プロレス 1983年クーデター事件《長州力》
1983年新日本プロレス内部で元レスラー、レスラー、フロントによるクーデターが計画・実行されました。
このクーデター事件は、最終的には鎮圧されるのですが、これがきっかけとなり、UWFや新日本プロレス興行(後のジャパンプロレス)の離脱へとつながっていきます。
今回は、長州力の1983年クーデターへの関わりを書いていきたいと思います。
1.新日本プロレスを退社
実はあまり話題にはなりませんでしたが、このクーデター時、長州力は既に新日本プロレスを円満に退社しており、フリーとして新日本プロレスのマットへ上がっていました。
この辺りの事が、あまり話題になっていないのは、長州力の退社発表の後、あのアントニオ猪木舌出し失神事件があったからです。
この事件は、長州がフリー宣言した事で、IWGP決勝の話題を長州に持っていかれないために、アントニオ猪木が起こした事件だとも言われています。
(なんの為にやったのか?真偽は不明です)
ただし、猪木は、自身が日本プロレスを飛び出して、東京プロレスを旗揚げしたことなどから、選手としての長州の気持を優先し、「フリーとなって新日のリングに上がればいい」と、長州のフリー宣言には、理解を示しています。
このフリー宣言に新日本プロレス営業本部長の新間寿は激怒し、日本プロレス界からの追放を猪木に提言しましたが、猪木としては、追放するよりも、フリーとして新日のリングに上げる事を選択しました。この時の長州人気は凄まじく、猪木もこの人気には一目置いており、長州なしでの興行は成り立たないと感じていたのだと思います。
長州としては、猪木の温情でフリーとなれたこと、また猪木・新間の二人には、50対2でも敵わないことを肌で感じており、どちらかと言うとアントニオ猪木寄りの姿勢でした。
2.血判状へのサイン
このように猪木寄りの姿勢でいた長州ですが、藤波辰巳から「新日本プロレスを良くするために協力してくれ」と熱心な誘いを受け、8月24日に血判状(団結誓約書)へサインしています。
この血判状には、以下の事が書いてありました。
《団結誓約書》
新日本プロレスにおいて、我々の望む改革ができた場合も、また、新日本プロレスを離脱し、新団体を結成する場合、いずれにおいても、今後全てに一致団結して対処していくことをここに誓約する。
昭和58年8月24日
この血判状は、クーデター自体が内部分裂(社内クーデター派、新団体設立派)してきており、一致団結し、決して個人の利益に走らないという事を示したものになります。
アントニオ猪木寄りではあったものの、藤波辰巳からの頼みを聞き入れました。
この20日程前、二人はベルトを賭けて戦っています。
その試合後の長州のインタビューは、藤波をリーダと認め、どんな状況になっても付いていくと言う気持を表しています。
「完敗だ。今日は何も言うことはない。彼は素晴らしいよ。これでスーパースターになったと言えるんじゃないか。ただ彼からベルトを奪えるレスラーがいるとすれば、それは俺だけだ。」
3.クーデターの鎮圧
長州力は、フリーの立場であり、また、どちらかと言うとアントニオ猪木寄りの姿勢でもありました。藤波辰巳も長州力の猪木寄りの姿勢を感じ取り、アントニオ猪木に全てを話してしまいます。
一番口が軽かったのは、藤波辰巳だったのかも知れません。
結局、このクーデターは、テレ朝の天皇と呼ばれていた三浦甲子二(みうらきねじ)の鶴の一声により、鎮圧に向います。山本小鉄とテレ朝出向役員によるトロイカ体制は、約3ヶ月で元の猪木・坂口体制に戻る事になります。
但し、新間寿だけは、謹慎処分の後、新日本プロレスを退社することになりました。
新間寿を退社にまで追い込んで、自分も会社に残ることはできないと考えたクーデターの中心人物だった大塚直樹氏は、新日本プロレス株式会社を退社し、「新日本プロレス興行」と言う興行会社を立ち上げることになります。
この会社がUWFと同じく、このあと新日本プロレスとの間に禍根を残すことになります。
新日本プロレス株式会社は、新日本プロレス興行を兄弟会社と思っていましたが、大塚直樹氏は、この興行会社を、純粋な興行会社ととらえていました。中立の立場でどこの興行でも行うと言う考えです。
そこへ全日本プロレスから業務提携の話があり、大塚直樹氏はそれを受けるのですが、新日本プロレス側はそれを当然許しませんでした。
最終的には、新日本プロレス株式会社は、この新日本プロレス興行へ取引契約の解除を通告します。
これに対する報復として、大塚直樹氏は、絶縁状を叩きつけ、選手の引き抜きを公言します。
そうです、これが長州力の新日本離脱につながっていきます。
4.ジャパンプロレス設立
これは、全日本プロレスのジャイアント馬場が、長州力以下5選手(アニマル浜口・谷津嘉章・寺西勇・小林邦昭)に対して書いた確約書になります。
最後の項目は、新日本プロレスでの1試合あたりの報酬の10%増を支払うと記載されています。これが決定打となり、長州力はジャパンプロレスへの移籍と全日本プロレスへの登場を決めることになります。
5.まとめ
1983年のクーデター事件は、無事に鎮圧された様に見えましたが、その後の、タイガーマスクの引退、新間寿の退社、UWF設立、ジャパンプロ設立へと流れていきました。
もしこのクーデター事件がなかったらどうなっていたのか?とても興味があります。
新日本プロレス 1983年クーデター事件《タイガーマスク・佐山聡》
1983年新日本プロレス内部で元レスラー、レスラー、フロントによるクーデターが計画・実行されました。
このクーデター事件は、最終的には鎮圧されるのですが、これがきっかけとなり、UWFや新日本プロレス興行(後のジャパンプロレス)の離脱へとつながっていきます。
その大きな渦の中で、タイガーマスク(佐山聡)も自身の結婚問題、プロレスではなく格闘技への熱い思いから、このクーデターへ参加することになっていきます。
1.タイガーマスク引退
このシーンは、タイガーマスクの名前を変更し、新たなタイガーとして帰ってくることの報告を行っているシーンです。
梶原一騎の逮捕に伴い、タイガーマスクの名前を変えたい新日本プロレスから、「タイガーマスクは新たなタイガーとして、戻って来ます」といった内容が発表されました。
しかし、この時、タイガーマスクは、引退を決意していました。タイガーの目は、うつろな目をしています。
サマー・ファイト・シリーズ 1983年8月4日 蔵前国技館 NWA世界ジュニアヘビー級選手権 タイガーマスク VS 寺西勇
タイガーマスクの引退試合となってしまったこのしあ、最後、タイガースープレックスでカウント3を見事に奪いました。
リングを下りる際、心のなかで「さようなら」とつぶやきリングを去ったそうです。
そして、8月4日のこの試合の後、8月8日に新日本プロレスは、慰安旅行で、群馬県の草津温泉に向かっている。
佐山は、当時の私設マネージャー的な存在だったショウジ・コンチャと草津温泉に現れ、2時間ほど新日本プロレス営業本部長の新間寿と話をし、翌日のサイン会のため、東京へ戻ったとなっている。
しかし、翌8月9日東京へ戻る列車の中で新間寿は、その電報・メモを受け取ることになる。
「シモノセキ ユクエフメイ イサハヤ」
これは、東京にいるの営業(伊佐早氏)からの伝言で、サイン会に来るはずのタイガーマスクが来ない。
「下関」とは、佐山の故郷である。
タイガーマスク消えたとは言えないため、下関と言う隠語を使っています。
その後、8月10日にタイガーマスクとショウジコンチャは、書面で契約解除の通知書を新日本プロレスへ送っています。
この日がタイガーマスクの引退日となるのでしょうか。
この書類には、以下の事が記載されていました。
(一) プロレス以外の催し物への出場報酬が話し合いなされていないばかりか、支払いを認めたものでも勝手に関連会社(アントン・ハイセル)に流用されて、タイガーに支払われていない。
(二)幹部らはタイガーマスクの人気を利用して得た莫大な利益を私利をはかって関連会社につぎ込み、しかも莫大な損失を出している。
(三)こうした事実はプロレスの健全な発展を願うファンの期待を裏切るものだ。よって、タイガーマスクは新日本プロレスとの選手契約を解除する
僕たち当時のファンからするとタイガーマスクに戻ってきて欲しい、きっと戻ってきてくれると思っていましたが、佐山の頭にはもうプロレスはなく、新しい格闘技へ傾倒していくことになります。
2.クーデターへの関与
実際には、タイガーマスク自体がこのクーデターに積極的に関与したとは言えません。
1983年のクーデターと、このタイガーマスク問題は、別の問題であり、同じタイミングでこの大きな2つの問題が重なって発生していたと言うのが正確な事実でしょう。
当時、佐山は、得体の知れないショウジコンチャと言う人に私設マネージャーと言う形で、入り込まれており、上手く利用されていました。
新間寿でさえタイガーマスクと話すにはコンチャを通さないと話せないくらいに異常な状態になっていました。佐山が、第一次UWFに参加する際、UWFの浦田社長により、ようやく関係が切れています。
関係を切るために反社を利用したとして、浦田社長は恐喝で逮捕されています。
クーデターに関しては、社内クーデター派、新団体設立派、また、藤波辰巳からも直接誘われていたようです。
当時の視聴率20%超えは、タイガーマスクの人気によるものでしたから、当然だと思います。
結果として、このクーデターは、小鉄の資金調達失敗と、藤波辰巳の優柔不断により上手くいきませんでしたが、佐山としては、冷めた目で見ていたのかも知れませんね。
3.まとめ
佐山聡とは、本当に真っ直ぐな格闘技好きの青年だったのだと思います。
世間知らずでコンチャに騙されたりしたようですが、格闘技への研究熱心さについては、誰も勝てないでしょう。
アントニオ猪木から
「お前を新日本プロレスの格闘技部門第一号にするから頑張れ」
この言葉を信じて、上手く行っていない新日本プロレス経営を立て直すため、タイガーマスクの仮面かぶり、自分のやりたい格闘技とは正反対の四次元殺法をやり続けることに疲れたのでしょう。
そんなタイガーマスクの気持ちも知らずに「なんで引退したんだ?」と裏切られた気持ちでいた子供の頃を思い出します。
タイガーマスクも中身は社会経験の少ない青年が演じており、若者が悩むのと同じように、結婚の事、自分のやりたい事、好きな事への情熱が強かったのだと思います。
最終的には、あれだけ批判したプロレスの世界に戻ってきますが、そこに至るまでの彼の人生を考えるとなんとも言えない思いになります。
こうやって考えるとタイガーマスクは、このクーデターには直接参加していたとは言えないのかも知れないですね。
「真説・長州力 1951-2018」を読みました
おはようございます。
今日は、メルカリで面白そうな本を見つけて、購入・読み終えたので、レビューしたいと思います。
「真説・長州力 1951-2018」
著者は田崎健太という方です。
裏表紙のあらすじは以下でした。
不世出のプロレスラー、長州力の実像に迫る。在日差別にさらされた少年期、レスリングに出会いオリンピックにも出場した青年期、そしてプロレス入り後の栄枯盛衰。本人および関係者からの莫大な数の証言により、「噛ませ犬事件」をはじめとするプロレス史上の重大事件の意外な真相や知られざる側面が明らかになる。徹底的な取材で語り手の息遣いまでをも感じさせる、濃密なノンフィクション
1.良かった点
長州力を中心にしたマット界全体の歴史が分かる内容になっています。ある程度の昭和プロレスの知識が必要かも知れませんが、とても読み応えはありました。
前半部分は、プロレスラーになる前の話で、長州力ファンなら感動・涙モノの内容ではないでしょうか。
新日本プロレス入門後の長州はよく知ってますが、学生時代の話などは、全く知らなかったですからね。
今後、長州力を題材にしたこれ以上の読み物は、出てこないだろうと思います。
昭和プロレス・長州力が好きな方は、買って損はないと思います。
最後、長州力のアントニオ猪木に対する気持ちの部分はとても良かったと思います。
長州力のアントニオ猪木を上手く言葉では表現できないという気持ちが、よく表現されていたと思います。
2.悪かった点
数多くの逸話がありましたが、第2回IWGP決勝(新日本プロレス3大暴動事件のひとつ)でのことが知りたかったのですが、そこの記載がなかったと思います。
今、書いていて思い出したのですが、TPG(たけしプロレス軍団)のことも記載がなかったように思います。
こういった聞きにくいことの真実をこの本の中で、長州力の口から聞きたかったです。
なかなか、なぞなぞの部分になるのでしょうが…
あと、本のボリュームはすごくあるのですが、意外と長州力本人のことや、会話形式での言葉が少なかった感じがします。
もっと会話形式の部分があれば良かったと思いました。
3.全体的な感想
最後に取材を拒否された人として、アントニオ猪木、マサ斎藤、佐々木健介とありました。
やっぱり、マサ斎藤からの取材が出来なかったこと、これだけが、この本の完成度を下げてしまったのではないかと思います。
佐々木健介は、別にいらないですが、マサ斎藤からの話は、是非、(拒否なので仕方ないですが)書いて欲しかったと思います。
今は、お亡くなりになっているので、非常に残念です。(アントニオ猪木は、無くて正解だったかも知れませんね)
そうはいってもキラー・カーンや谷津嘉章の取材があり、興味深く読めました。
長州力が離婚して、同じ人と再婚していたことは知りませんでした。長州力の披露宴は、昔、子供の頃、週刊プロレスで見たことがあったので、なんとなくノスタルジックでした。
全体的には、大きな文句はない内容、ボリュームになっています。凄く時間をかけて取材されているのも想像出来ました。
納得のボリューム感だったので、「真説・佐山サトル」もメルカリで購入しました。
佐山聡の本も読んでみますが、他の昭和レスラーについても書いて欲しいと思いました!(大変でしょうが…)
昭和の週刊プロレスを買いました
おはようございます。
いつも「僕と新日本プロレスと」を見ていただきありがとうございます。
今日は、メルカリで昔の週刊プロレスを購入したので、紹介したいと思います。
購入したのは、1983年から1985年の週刊プロレスで、合計70冊です。
1冊あたり90円で購入しました。
二桁のバックナンバーをまとめ買いしたのですが、
一桁のバックナンバーも5冊おまけでつけてくれていました。(ありがとうございます)
当時の価格で250〜290円、裏表紙なども懐かしい広告で子供の頃の思い出がよみがえります。
100番代も出品されていましたので、購入しようかと思いましたが、置き場所なども考えると躊躇しています。
購入して、少しだけ読んでみたのですが、子供の頃、毎週楽しみに読んでいたのを思い出しました。
今、読むと初期の週プロは、情報量も少なくて、内容もチープではあるのですが、当時の生の情報が書いてあるので、非常に興味深く読める箇所もあります。
読んだ結果など、このブログにも反映していきたいと思いますので、今後も宜しくお願いします!
1980.9.25 アントニオ猪木 VS スタン・ハンセン《0.1秒差でのウエスタンラリアート》
80年代から90年代の新日本プロレスは、色々と面白いアングル・名勝負がありました。
僕の見た名勝負や印象に残った新日本プロレスのアングルやイベントについて書いていきたいと思います。
皆さんの新日本プロレス名勝負はどの試合だと思いますか?
宜しければ、コメント欄に記載お願いします。
今日の名勝負は、アントニオ猪木対スタン・ハンセンについて書きたいと思います。
ブラディ・ファイト・シリーズ&ファン感謝スーパー・ファイト 1980年9月25日 広島県立体育館 NWFヘビー級選手権試合 アントニオ猪木 VS スタン・ハンセン
この年(1980年)、アントニオ猪木とスタン・ハンセンは、数え切れない程の名勝負を繰り広げています。
《対戦成績は、猪木の5勝2敗3分》
1980年
① 2月2日 札幌中島スポーツセンター
ハンセン(13分16秒 反則)猪木
② 2月7日 大阪府立体育会館
(12分40秒 両者リングアウト)
③ 2月8日 東京体育館 NWFヘビー級選手権
ハンセン(17分12秒 リングアウト)猪木
④ 4月3日 蔵前国技館 NWFヘビー級選手権
猪木(12分55秒 体固め)ハンセン
⑤ 4月4日 川崎市体育館
(10分7秒 両者リングアウト)
⑥ 5月9日 福岡スポーツセンター NWFヘビー級選手権
猪木(17分3秒 反則)ハンセン
⑦ 5月29日 弘前市民体育館 第3回MSG決勝リーグ戦
(9分18秒 両者リングアウト)
⑧ 6月5日 蔵前国技館 第3回MSG優勝戦
猪木(7分49秒 反則)ハンセン
⑨ 9月11日 大阪府立体育会館 NWFヘビー級選手権
猪木(9分18秒 リングアウト)ハンセン
⑩ 9月25日 広島県立体育館 NWFヘビー級選手権
猪木(10分49秒 逆さ押さえ込み)ハンセン
この年、これだけシングルマッチをしているということは、この時点でスタン・ハンセンは、アンドレ・ザ・ジャイアントと並び、新日本プロレスのナンバーワン外国人だったのだと思います。
この名勝負の中でも最後に書いていた⑩広島県立体育館での有名なこのシーン。
ウエスタンラリアートの相打ち。
猪木のウエスタンラリアートが、0.1秒早く当たったと言われているシーンですね。
(コンマ1秒って笑)
このまま猪木のピンフォール勝ちと思われていますが、このあと、さらにウエスタンラリアートを避けて、逆さ押さえ込みで勝っています。
ラリアートとラリアット、どちらが正解なのでしょう?
リキラリアットの場合は、ラリアットですよね。
違うか。
この試合は新日本プロレスワールドで観ることが出来ます。
昭和プロレスファンの方は、登録して見てみてはどうでしょうか。
1988.8.8 藤波辰巳 VS アントニオ猪木
80年代から90年代の新日本プロレスは、色々と面白いアングル・名勝負がありました。
僕の見た名勝負や印象に残った新日本プロレスのアングルやイベントについて書いていきたいと思います。
皆さんの新日本プロレス名勝負はどの試合だと思いますか?
宜しければ、コメント欄に記載お願いします。
今日は、飛龍革命の結末とでも言うべき、猪木対藤波の60分フルタイムドローのこの試合を書いていきたいと思います。
88サマーファイト・シリーズ&スーパー・マンデーナイト・イン・ヨコハマ 1988年8月8日 横浜文化体育館 IWGPヘビー級選手権試合 藤波辰巳 VS アントニオ猪木
このシーンは、フルタイムドローの後、猪木が藤波をチャンピオンとして認めたシーン(世代交代のシーン)になります。
この時、猪木45歳、藤波35歳の時です。
この試合に引退を賭けたアントニオ猪木は、実況に旧友の古舘伊知郎を指名します。
古舘伊知郎の実況と猪木の勇姿が60分見れるこの試合は、完全保存版ですね。
握手を求める藤波を拒否する猪木。
年齢、リーグ戦の疲れのせいもあってか、試合内容はやはり藤波の方が有利に進めていたと思います。
猪木は、ブレインバスターやバックドロップ、スリーパーホールド、後半は、延髄斬りや卍固めを繰り出し、勝利を狙います。
一方、藤波は、足4の字固めやサソリ固めで、猪木の足を攻めていましたが、基本は猪木の攻撃を受けていました。
猪木のスリーパーホールドで、何度か絞め落とされそうになっていましたが、その都度、こらえて最後は時間切れの引き分けでした。
試合の後、僕はこう思いました。
この試合はどちらかが勝って終わるのではなく、時間切れ引き分けが、100点満点の答えだったのではないでしょうか。
アントニオ猪木と藤波辰巳のこれまでの関係や、藤波辰巳の性格を考えると、こういう結末での世代交代しかなかったのではないでしょうか。
アントニオ猪木は、この時のIWGP王者藤波に挑戦するためのリーグ戦(IWGPヘビー級王座挑戦者決定リーグ戦)では、長州力にピンフォール負けを喫しています。
88サマーファイト・シリーズ&スーパー・マンデーナイト・イン・ヨコハマ 1988年7月22日 札幌中島体育センター IWGPヘビー級王座挑戦者決定リーグ戦 アントニオ猪木 VS 長州力
長州力(7分55秒 体固め)アントニオ猪木
このまま、長州力が藤波辰巳へ挑戦するのかと思いましたが、この後、猪木は、キムケン、マサ斎藤、ビックバンベイダーを倒し、藤波への挑戦権を獲得しました。
そして、このフルタイムドロー。
試合後、新日本プロレスのレスラーが自然とリングに集まりました。
長州力もいます。
感動的なシーンですね。
この試合は新日本プロレスワールドで観ることが出来ます。
昭和プロレスファンの方は、登録して見てみてはどうでしょうか。
新日本プロレス 1983年クーデター事件《後編・結》
《中編・転からの続き》
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《後編・結目次》
1.それぞれの想い
この記事を書いてみて、最後は鎮圧されてしまったクーデターでしたが、当時の新日本プロレスの選手やフロントの方々には色々な想いがあったのだなと感じました。
ひとつだけの問題ではなく、色々な問題が絡み合って、クーデターへ発展した。
最後に僕の感想を書いても仕方がないので、当時の雑誌のインタビューなどから選手の人達の想いを書いてみたいと思います。
2.アントニオ猪木の想い
8月28日田園コロシアムでラッシャー木村との戦いの後のインタビュー記事より。
kent-wrestling.hatenablog.com
まあ、私の場合、物事に対して生まれながら寛容な部分ってあるんですね。
試合の中では別ですけど、ひとつ問題が起こると、それが組織にとって非常に重大なことであっても、なんとなくそれを許容してしまうんです。
だからタイガーマスクの問題にしても、下の方から若い人間がそういう風に突き上げてくるエネルギーが湧いてくるというのは、私はいいことだと考えています。
まあ、私がいない間に起きたクーデターなんですけど、それをもエネルギーとして今後に役立てていきたいと考えています。
しかし、なるべく尾を引かない様に今後、レスラーが団結していくことが大事ですね。
プロレスというのは10年かかって作ってきたものが、一夜にしてすべてがくずれてしまうところがありますので、選手はひとりひとり、その点をよく自覚して考えてほしいですね。
まあ、クーデターやタイガーの問題にしても人間の主張というのは広大な宇宙に比べると鼻クソみたいなもので、そんなことでガタガタしたくないですね。
時間が答えを出してくれますよ。
8月なので、この時はまだクーデターの最中ですね。この記事を読むと、やっぱり猪木は人間が大きいですね。
3.藤波辰巳の想い
このクーデターが失敗した原因は、藤波辰巳の優柔不断さにあると思います。
誰にでもいい顔をするだけで、リーダーシップを取らなかったことが、クーデターの分裂・鎮圧につながりました。
たしかに、今回の新団体設立とクーデター事件は、新日本にとってイメージダウンをもよおすスキャンダルでした。
そして、悪いことには人間の欲望がからんだみにくい争いばかりが、表に出てしまった感じがあります。
しかし、よく考えてみると、みんな新日本プロレスをよくするためにやったことであり、その精神が底に流れていることも理解してほしいです。
クーデター事件はレスラーのための会社作りで動いたことも事実なのだからその精神を柱にして、新日プロの再建をはかることが、今後の課題であると思うんです。
そのためには、やはり新日プロの偉大なる象徴といってもいいアントニオ猪木を中心にして、もう一度、猪木さんがいつも語っているプロレスとは、闘いである。闘いはリングの上にしかないというこの言葉を思い起こし、がんばっていくしかないです。
今回のことで、社員やレスラーが安心して働ける会社を持つことが一番大事だと知りました。
だから、私は、猪木さんと腹をわっていろいろ
話をするつもりですし、相談もしていくつもりです。
必ず良い方向にむかっていくと思います。
4.大塚直樹氏の想い
当時の新日本プロレス営業部長である大塚直樹氏は、このクーデターの中心人物です。
彼は自身の著書の中で、このクーデターに対して、こう言っています。
私はいま、あのクーデター事件について、後悔はしていないが、反省はしている。確かに当時の新日本の経営には道義的問題があったかも知れない。しかし、新日本プロレスは猪木さんの会社であり、猪木商店であって、営業部長あたりが会社のカネの使い方に「物言い」をつけるのは不遜なことだったと思うのである。
5.新間寿氏の想い
新間寿氏の想いについては、以下の言葉に集約されます。
猪木には山本小鉄という正妻がいたが、そこに新間寿という愛人が出てきて猪木を取ってしまった。
このクーデターというのは山本小鉄の犬も喰わない男の嫉妬から始まったものなのだ。
6.選手達の想い
当時の雑誌に各レスラーの想いを聞いた記事がありましたが、全員、当たり障りのないことをコメントしていますね。
主な選手のコメントを記載します。
まずは、この後、UWFのメンバーとなる選手達のコメントです。
《前田明》
それでレスラーの生活がよくなるもんだったらいいんじゃないですか。あとは時間が解決してくれると思います。
《藤原喜明》
全然、何も感じない。一生懸命やっていればいい結果が出るはずだ。
《高田伸彦》
全然分からないですね。違う世界というか、我々の入り込めない世界の出来事ですから。とにかく今のまま、安心してリングに上がれる状態であれば、いいんですけど…上がれるリングがなくなったら、おしまいですから。
《山崎一夫》
事務所の方では色々あるようですけど、僕らの生活というのは変わりないと思いますね。ただ精神的な動揺が一番こわいと思います。ファイトにブレーキがかかって、怪我したりしては元も子もありませんから。タイガーさんの引退によって、付け人という仕事からは開放されたけど、タイガーさんは、わがまを言ったりするような人じゃなかったから、付け人としての苦労はなにもありませんでした。むしろタイガーさんと接していると、得ることが多かったので、今はさびしい気持ちです。
そうですね、山ちゃんは佐山と仲が良かったので、この後、タイガージムにも所属します。
次に血判状にサインした選手達のコメントです。
《永源遥》
全然関係ないね。今後?いい方向にいきますよ。
永源は、このクーデターの結構な中心人物でしたので、あまり、コメントは出来ないでしょう。
《木戸修》
我々選手に言えることって、ないんじゃないの。うん、何も感じないし、別に変わらない。
《小林邦昭》
僕の個人的なショックというのは、当時の敵であるタイガーマスクがいなくなったことだ。残念の一言だよね。僕は正直いって、タイガーマスクという相手がいて、光ってきた人間だから、今なんか、誰を相手にしたらいいのか…僕は今でも叫び続けているんですよ。「カムバック、タイガーマスク!」とね。
新日本プロレス 1983年クーデター事件《中編・転》
《中編・承からの続き》
kent-wrestling.hatenablog.com
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《中編・転目次》
1.猪木の社長辞任とトロイカ体制
山本小鉄は「社長のアントニオ猪木、副社長の坂口征二、営業本部長の新間氏を失脚させて新日本を改革する」と内部改革を言い出したことで、当初構想に掲げていた新団体設立へと動いていた大塚直樹氏との間に亀裂が生じていました。
新団体設立の資金調達は、山本小鉄が行っていたが、小鉄があてにしていた大手スポンサー(中村パン)が他社(山崎製パン)に買収され、資金調達に難航していました。
8月25日 ブラディファイトシリーズ開幕直前、緊急役員会が開かれ、役員会の場で小鉄が血判状を持ち出して内部改革を強行し、シリーズ開幕戦が行われる大宮スケートセンターの控室で猪木に改めて退陣することを要求しました。
血判状は、内部改革か新団体設立か、どちらになっても一致団結して行動し、いかなる場合も個人的利益に走らないことのために作られたものでした。
しかし、新団体設立に向けて資金調達が出来ずに追い詰められた小鉄は内部改革しかないと考え、血判状を猪木、坂口、新間寿氏退陣のために活用してしまいました。
猪木は、小鉄の要求を受け入れて退陣し、坂口は取締役に降格、新間寿氏は謹慎とされ、小鉄とテレ朝出向幹部2名による「トロイカ体制」が誕生し、小鉄ひとりが代表取締役に就任しました。
《トロイカ体制》
代表取締役 大塚博美
同 望月和治
同 山本小鉄
取締役 坂口征二
同 小林省三
同 泉穀一
監査役 増井智
同 林治郎
しかし、これにより、大塚直樹氏らは、小鉄だけ代表取締役に就任し、完全に個人の利益に走ったと見てしまい、その後、協力はしませんでした。
9月1日 大塚直樹氏は、退社を決意して猪木を訪れましたが、その際、猪木がクーデター計画の全てを把握していることに驚きました。
猪木は、藤波や佐山から全てを聞いたことを明かします。
藤波も師匠の猪木の前では、直立不動で逆らうことはできず、タイガーマスク(佐山)のせいにして、自分は悪くない態度をとった様です。
そして、猪木はクーデターは必ず失敗すると断言しました。
そもそも、藤波辰巳にリーダは性格的にも無理だったのでしょう。
2.俺の首をかっ切ってみろ
ブラディ・ファイト・シリーズ 1983年8月28日 田園コロシアム アントニオ猪木 VS ラッシャー木村の試合後、アントニオ猪木はマイクを握りこう叫んだ。
「おまえら、姑息なことなどせず、堂々と俺にかかってこい。俺のクビをかっ切ってみろ、坂口お前の挑戦も受けてやる。いいか、てめえら、強いものが天下を取れ、この野郎、いつでも受けてやるぞ!この野郎」
この言葉は、アングルなどではなく、社長を辞任させられた猪木の「心の叫び」に聞こえます。
藤波辰巳は、猪木の復活の勝利を祝いにリングに上がる予定だったが、鬼気迫る形相の猪木を見て、リングインすることができませんでした。
そう、やっぱり、新日本プロレスはアントニオ猪木の団体であり、当時の藤波や大塚直樹氏ごときにアントニオ猪木をコントロールすることなど出来なかったのです。
新団体設立を断念した時点でこのクーデターは失敗に終わっていたことを物語るシーンでした。
3.クーデターの鎮圧
猪木の社長辞任から3ヵ月後、テレ朝専務の三浦甲子二が新日本のクーデター騒ぎに怒り「猪木を降ろすならテレビ朝日は新日本の中継を打ち切り、猪木に新団体を旗揚げさせ、新団体を放送させる」と発言します。
三浦専務の発言は、失脚させられた新間寿氏の差し金で、新日本を去る際に三浦専務に会った新間氏がトロイカ体制を崩壊させるように働きかけていました。
三浦専務は「テレ朝の天皇」として、事実上テレビ朝日を牛耳っており、猪木と坂口の支援者でもありました。
また、現場側でも現場を取り仕切る人間がいなくなり坂口が現場責任者として復権していたことからトロイカ体制は早くもほころびが見えていました。
やはり、同じ組織の中で、そう簡単に体制・役割は変わりません。
テレ朝から辻井博常務が新日本に送り込まれ、トロイカ体制に三浦専務の言葉をそのまま伝えると、三浦専務の威光には逆らえないとして大塚博美氏と望月氏は退陣、小鉄は最後まで抵抗しましたが、最終的に平取締役に降格となりました。
11月11日 臨時株主総会が開かれ、猪木と坂口が復権し社長、副社長に戻ったが、新間寿氏だけはテレ朝の要望で戻されず、代わりにテレ朝から役員が送り込まれて、新日本プロレスを監視することになりました。
《新体制》
代表取締役社長 = アントニオ猪木
代表取締役副社長 =岡部政雄(テレビ朝日)
取締役副社長 = 坂口征二
専務取締役=永里高平(テレビ朝日)
山本小鉄は、最後まで抵抗した様ですが、最後は、アントニオ猪木と二人で社長室に入り説得され、号泣して部屋を出てきて、クーデターはついに鎮圧されました。
新日本プロレス 1983年クーデター事件《中編・承》
《前編・起からの続き》
kent-wrestling.hatenablog.com
《中編・承目次》
1.クーデター計画の出発点
1983年6月30日 第12回定時株主総会の事業報告書を見た営業部長の大塚直樹氏は、その不信感から、翌7月1日 山本小鉄へ相談をしました。
山本小鉄もまた、アントンハイセルへ資金が流出し、選手や社員への還元がされていないと感じ、現状に不満を持っていることを知ります。
これだけの人気がありながら、全く上がらないファイトマネーに選手全員が、不信感を持っていたのは間違いない様です。
その夜、山本小鉄と大塚は、新団体設立資金3億を山本小鉄が準備し、また、この計画を具体的に実行するかどうかを新団体のエース候補の藤波辰巳の気持ちに委ねました。
新団体のエースは藤波辰巳。
選手には山本小鉄が話をつける。
営業には大塚直樹氏が話をつける。
そして、新団体名は「ワールドプロレスリング」。
これが、クーデター計画の出発点となりました。
2.クーデターの分裂
山本小鉄は、7月12日 藤波辰巳をエースとした新団体の設立計画を藤波辰巳に話します。
藤波は、これを「ひとつ返事」で快諾し、とにかく何を言ってもOKだったらしく、現状への不満が相当大きかったことが伺えます。
また、7月27日巡業先の金沢で、新間寿とタイガーマスクが話し合いが持たれました。
佐山の結婚を渋々認めた新間だったが、極秘結婚式をさせたい新日本プロレスと佐山の間で、もめており、佐山は、「それなら会社を辞めます」と回答しており、この時に話し合いがなされました。
そして、7月29日 小鉄の説得により、タイガーマスクがクーデターに合流することになります。
8月4日 サマーファイトシリーズ最終日の蔵前国技館。 NWA世界ジュニアヘビー級選手権タイガーマスク VS 寺西勇の試合前に「タイガーマスク」から名前を変更する報告を行うタイガーと新間寿。
結局はこの試合がタイガーマスクとしての最後の試合となってしまいました。
また、もうひとりの人気レスラー長州力について、8月5日 小鉄の自宅にてその扱いについて話がなされました。
血判状にある通り、クーデターには、フリーとなった長州力も名前を連ねていましたが、内情はこのままフリーで活躍していきたいこと、猪木の温情によりフリーとなって新日本プロレスのリングに上がれていることから、どちらかというと猪木寄りの姿勢でした。
レスラー、社員全員でクーデターを起こしても、猪木・新間に太刀打ち出来ないと思っていたのだと思います。
そして、結果として、小鉄の支援者である中村パンからの3億円の資金調達は上手くいかず、このクーデターは、大きなうねりの中、この後、3つのグループに分裂していくことになります。
①テレ朝幹部と小鉄による社内クーデター派
テレ朝からの出向幹部により新団体設立ではなく、猪木・坂口・新間を外した形で、内部改革を行えば良いと諭された内部改革派となります。
テレ朝からすると、新団体への乗り換えは簡単ではなく、アントニオ猪木なしの「ワールドプロレスリング」は、無理だと思ったのだと思います。
②大塚氏その他社員による新団体設立派
当時のアントニオ猪木・新間寿氏この二人の影響力は相当に大きく、全社員・全レスラーが一丸となってかかっても敵わないと考えた新団体設立派となります。
実際にはこれが正解だと思います。
それ程、当時の猪木は大きい存在でした。
③タイガーによる独立プロダクション派
このグループは、次章に記載のタイガーマスク引退とともになくなります。
3.タイガーマスクの引退
電撃が走ります。
8月11日 タイガーマスクが引退を発表
8月12日 マスクと2つのチャンピオンベルトを返上
引退する直前のタイガーマスクは、曽川庄二氏ことショウジ・コンチャに入り込まれていました。
これにより、新間寿氏との間に亀裂が生じていました。
これに加え、タイガーマスクの結婚問題、自身の格闘技への考えの問題、ファイトマネー問題、そして、このクーデター問題に嫌気がさし、引退を選択したのではないかと言われています。
やはり、天才の扱いは、難しいですね。
タイガーマスクも一時は、このクーデターに加担をしていましたが、大塚直樹氏たちは、どうしてもコンチャを信用できず、孤立したタイガーマスクとコンチャは、独自で動き出すこととなり、マスコミに向けて引退を表明、新しい格闘技を目指しタイガージム設立へと動いていきました。