《僕と新日本プロレスと》新日本プロレスのブログ

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第1回IWGP優勝戦《猪木舌出し失神事件》

第1回IWGP勝戦猪木舌出し失神事件。

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IWGP決勝リーグ戦

IWGP決勝リーグは5月6日 福岡スポーツセンターで開幕した。開幕戦の目玉カードは、猪木とアンドレの対戦だったが、猪木がショルダースルーでアンドレを投げた際、アンドレの体が場外フェンスを越えてしまい、猪木のオーバー・ザ・フェンスでの反則負けとなってしまった。
当時の新日本プロレスには、リングと観客席を分けているフェンスを自分から故意に越えていった場合と、故意に相手をフェンス外に出した場合は、その時点で負けが宣告されるという不可解なルールがあったのである。
(この不可解なルールは、第2回IWGP決勝での大暴動の後、不透明決着の根源であるとファンに指摘され撤廃されることとなる)

開幕戦からアンドレが着実に勝ち星を伸ばす中、それを追う猪木とホーガンのリーグ戦での初戦は5月19日 大阪府立体育会館で行われた。
白熱の攻防だったが、場外でホーガンが猪木を担ぎ上げると、リングサイドで試合を見ていたアンドレがフェンスの外に飛び出した猪木の足先を捕まえて引っ張った。猪木とホーガンは2人とも、もつれるようにフェンスの外に飛び出してしまった。結局2人は勝ち点を伸ばせず、アンドレの一人勝ちが濃厚になっていった。

そんなひどいやり方のアンドレの優勝決定戦進出を阻んだのは、キラー・カーンだった。優勝決定戦前日の6月1日 名古屋・愛知県体育館で文字通りアンドレの足を引っ張り続けて両者リングアウトという共倒れを選んだのである。
結局アンドレは勝ち点36の3位でリーグ戦を終えた。これにより、翌2日の蔵前での優勝戦は勝ち点37点で並んだ猪木vs.ホーガンに決定した。

決勝の相手が、アンドレであれば、猪木の勝利は難しいと思われたが、ホーガンであれば猪木の完全勝利になるとファンの全員がそう思ったのではないだろうか?
延髄斬りからの卍固めで試合終了、この結末を全員がイメージしていた。
当時のホーガンはまだ全米進出のブレイク前で、どちらかと言うと猪木のタッグパートナーであり、必殺技のアックスボンバーもハンセンのウエスタンラリアートの二番煎じで、「イチバーン」の掛け声で人気はそれなりに出つつあったが、まだまだ、アンドレやハンセンの域までは、達していなかった。

猪木が負けた

1983(昭和58)年6月2日 東京・蔵前国技館で行われた「第1回IWGP決勝リーグ戦」の優勝決定戦 アントニオ猪木ハルク・ホーガン戦は、ファンのイメージを大きく裏切る結末となってしまった。

試合は、ホーガンのパワーの前に大苦戦を強いられる猪木。試合終盤の場外戦で背中を向けた猪木の後頭部に、ホーガンがアックスボンバーを放つと、猪木は頭部を鉄柱に打ちつけ意識もうろうに。何とかエプロンに戻った猪木に、再びアックスボンバーが炸裂し、場外に吹き飛ばされる。集まったセコンド陣が猪木を担ぎリングへ戻したが、そこには舌を出して失神する猪木の姿が・・・

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ファンからの猪木コールに対し、「渇ききった時代に送る、まるで雨乞いの儀式のように、猪木に対する悲しげなファンの声援が飛んでいる」古舘伊知郎のこの名言が生まれた瞬間でもあった。

結局、猪木の意識は戻らず、そのまま21分27秒 KOによりホーガンの勝利。リング上で応急処置を施された猪木は、そのまま担架に乗せられ救急車で新宿の東京医科大学病院へ緊急入院となった。
この凄惨なアクシデントは広く世間の注目を集め、マスコミはこぞってこの「事件」を報じた。

演技か事故か

しかしながら、現在、この事件が猪木の演技であるとする声は多い。その根拠とされるのが「人間は失神した際には舌が丸まるのが一般的で、舌を出して失神することなどあり得ない」というものだ。

また「入院先の東京医科大学病院に弟を影武者として残し、深夜に極秘退院していた」「翌日、副社長の坂口征二が《人間不信》と書き置きを残して失踪した」などの関係者の証言もあり、IWGPハルク・ホーガンの価値を上げようとした猪木が、失神の演技を独断で行い世間の注目を集めようとしたのではないか?という疑惑がファンの間には浸透している。
しかし、当の坂口は「気絶した当初は猪木の舌は口の中にあり、セコンドの木村健吾に舌を出させた」と、猪木の失神が本当であったとする証言をしており、また、猪木自体も脳震盪を起こしたとだけ語っており、その真相は藪の中である。

猪木優勝のシナリオはどこで狂ったのか?

この「舌出し失神」について「猪木の独断で決行された」ことは、複数の関係者の証言を見れば「事実」と言えるのは間違いないだろう。
それならば、あの試合、当初のシナリオは果たしてどうなっていたのか?

1983(昭和58)年6月2日の木曜日 東京・蔵前国技館で行われたアントニオ猪木ハルク・ホーガンの第1回IWGP勝戦
この試合は、長い間プロレスは筋書きのないドラマのであることが、ファンの記憶に強烈に残り、語り継がれるインパクトを残した試合であった。
こういった表現を行うのは、今日では「予定調和を嫌う猪木お得意のサプライズをこれ以上ない見事なタイミングで表現したものだった」と、ファンの記憶に上書きされてしまったからである。

新間寿氏とアントニオ猪木が、3年越しの準備期間を経て、ついに実現したIWGP構想。猪木が時価1億円といわれた世界統一の象徴のベルトを巻く・・・リアルタイムで観戦していたファンは、そう信じて疑わなかったはずである。
当時、中学生であった私も、もちろんその1人であった。しかし、ホーガンのロープ越しのアックスボンバーで、猪木が舌を出して失神KOされ、救急車で病院送りとなり、ホーガンの優勝という、とんでもない結末となってしまった。

テレビでも猪木入院のニュースが

私は猪木病院送りのニュースを6月3日金曜日の朝、テレビで知った。その日の夜の「ワールドプロレスリング」では、猪木が舌を出し失神する様子を信じられない思いで見ていた。
猪木ファンにとっては、堪え難い光景だが、当時、私は「プロレスは八百長なんかではない。何が起こるかわからない命懸けの真剣勝負。この試合こそ、その証拠である。」と思わざるを得なかった。
また、そのように考えないと、猪木舌出し失神、病院送りの事実をとても自分のなかで受け止め切れなかったのである。これは私だけではなく、世の多くの猪木ファンが感じたことではなかったか、と思う。
しかし、それから約2年後、ファンの熱い思いを根底から覆される試練をプロレスファンは迎えることになる。

ミスター高橋本の衝撃

2001年2月ミスター高橋氏による『流血の魔術 最強の演技 すべてのプロレスはショーである』が刊行された。数多くの名勝負もショーだったという舞台裏が紹介されただけでも衝撃であったが、そのなかでも、ファンにとって以下の記述は、猪木舌出し失神KOの当時の衝撃を上回る衝撃だったのは間違いない。

《ロープ越しのアックスボンバーでエプロンからリング下に転落、頭を床に打ち付け、猪木さんが昏倒したシーンを覚えている方も多いだろう。結論から言うと、あれは猪木さんの一人芝居だった。いちばんシナリオが狂ってはいけない場面で最悪の事態を迎えてしまった。誰もがそう思っていた。もちろん相手のハルク・ホーガンも。ところが後日、これは猪木さんが意外な結末をリアルに演出し、それによってIWGPの価値を高めようという仕掛けだったことがわかった。猪木さんは誰にも自分の考えを告げずに完璧に一人芝居をやってのけたのだ。ただ、ここで一番戸惑ったのは、マッチメイカーであり、猪木さんを交えた坂口さんだった。レスラーが自分で試合に特別な考えを持ち込むときは、マッチメイカーと相談して了承を取るのが常識だ。(中略)あの試合の翌日、私が会社に行くと、坂口さんは「人間不信」と大きく書いた紙を残して姿を消していた。私は、誰に知らされるでもなく、その文字を見て、猪木さんの自作自演を直感した。それから数日間、坂口さんは会社に姿を現さなかった。》

《当然ながら、私たち全員が、金看板である猪木さんを勝たせるつもりでいた。当時のマッチメイカーは坂口さんだ。もちろん坂口さんは猪木さんの勝ちをシナリオに書き、レフェリーの私にもそれを伝えていた。誰もが猪木さんの優勝シーンを待っていたところへ、あのアクシデントが訪れたのだ。》

「猪木の一人芝居」を裏付ける証言

改めて言うまでもないが、この高橋本の反響は凄まじかった。その後、当時の関係者から続々と重大な証言が明かされる。
それらひとつひとつが明かされ、ファンに新たな衝撃を与えるとともに、「猪木が1人で演じた究極の演技」は、ほぼ確実であることの裏付けとなった。

新間寿氏 「アントニオ猪木の伏魔殿」

失神KOの翌朝、入院先である新宿区の東京医科大学病院の病室に行くと、ベッドには猪木ではなく、猪木の実弟の猪木啓介氏が寝ていた。絶対安静のはずの猪木は深夜1時過ぎ、病院を抜け出し、渋谷区代官山の自宅へ向かった。病院を抜け出した猪木に対して坂口征二は激怒し、「新間さん、俺、当分、会社へ出ないよ」と言って、「人間不信」と書いた紙を会社の自分の机に置き、ハワイかどこかへ行ってしまった。猪木は入院した翌日の午前には退院。病院を抜け出したことを詫びるため、猪木が退院してから2、3日後、新間氏が病院に挨拶に出向いたとき、担当看護師が試合をテレビで見たと伝えた上で、舌を出したままの失神は医学的に有り得ない、と伝えた。

桜井康雄氏「プロレススキャンダル事件史」

入院当日の夜、東京医科大学病院で張り込んでいた芸能リポーター梨本勝氏が、「今、猪木さんが奥さん(倍賞美津子)と一緒に病院を出て行きましたが」という電話連絡を東京スポーツ新聞社編集局で事後対応にあたる桜井氏あてにしてきた。桜井氏は梨本氏に口止めを願い、新間氏に連絡を入れる。桜井氏が後日、猪木にこの件を問うと、猪木は「脳震盪を起こしたのは事実。意識が回復してみると、寝つけず、家に帰りたくなって啓介に車を持ってこさせ、妻と抜け出した。家ではぐっすり眠れたが、朝早く、新間に叩き起こされ、明け方に病院に戻った」と話した。

結論まとめ

このように数々の証言を俯瞰した上で結論をまとめてみると、猪木は試合結果が分かっている予定調和を嫌い、また、IWGPという言葉を一般社会へ知らしめ、その評価を上げるため、そして、これからのスターになる可能性を秘めたハルク・ホーガンの名前を売るためにこのとんでもない「事件」を起こしたのではないだろうか。あのまま予定通りに猪木が優勝していたら、ここまでIWGPという言葉がファンの記憶に残るものになったのかは確かに疑問が残る。
プロレスを一般社会に受け入れさせるための猪木なりのやり方であったのではないかと考察する。