《僕と新日本プロレスと》新日本プロレスのブログ

主に80年代、90年代の新日本プロレスのアングル、名言を書いたブログです。

新日3大暴動事件《たけしプロレス軍団》

1987年12月27日 両国国技館 87イヤーエンド・イン・国技館
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kent-wrestling.hatenablog.com

この3大暴動事件のなか、最大の暴動と呼ばれるのが、1987年12月27日の両国国技館大会で起きた、たけしプロレス軍団、通称TPGを原因とした暴動である。

もともと東スポ紙上でTPGの設立を発表したビートたけしマサ斎藤が接近し、打倒猪木で一致団結。同大会にビッグバン・ベイダーを刺客として送り込み、藤波辰巳木村健吾VSマサ斎藤ビッグバン・ベイダー戦が行われることが発表されていた。
しかし、当日、ビートたけしガダルカナル・タカ、ダンカンなどがリング上に現れ、ベイダーと猪木の直接対決を要求。猪木はこれを承諾し、メインで行う予定であった猪木VS長州戦を、猪木VSベイダー戦へと変更した。これに観客が激怒。そのため、急遽ベイダー戦の前に猪木VS長州の特別試合が行われたものの、セコンドの馳が乱入し長州の反則負けとなる不透明決着。挙句、ベイダー戦では、あっさりと猪木がフォール負けという事態になり、最終的には升席や椅子席が破壊されるなどの、大規模な暴動へと発展してしまったのである。

誰のアングルだったのか?
どこで歯車が狂ったのか?

1987年12月27日両国国技館での「87イヤーエンド・イン・国技館」は「87パニック・イン・国技館」とまで形容された。超満員札止めの1万1090人をのみ込んだこの日、メインイベントでは猪木のIWGP王座に長州が挑戦する3年ぶりの一騎打ち、セミに藤波&木村VS斎藤&ビッグバン・ベイダー戦が予定されていたが、ビートたけしたけし軍団率いるTPG(たけしプロレス軍団)が、対猪木の刺客としてベイダーを率いてセミのリングに登場したところでハプニングが起こる。
TPGの誕生は、東京スポーツで連載を持っていたビートたけし桜井康雄氏が東京・六本木の
全日空ホテルで猪木と引き合わせたことによる。

「あの年のいつ頃だったか忘れましたが、控室で私と猪木さんのみで打ち合わせをしていたとき、たけしさんに会ったことを猪木さんが言いました。『アングルもプロレス内だけの人間が考えるだけではなく、ああいうアイデアに溢れた人の意見も反映させる必要があるな』と言ったのです。プロレスの関係者だけでつくるマッチメイクに、猪木さんなりの限界を感じていたのかもしれませんが、私は違和感を覚えた。その頃、私はケーフェイに凝り固まっていましたので、『部外者にマッチメイクさせるのはとんでもない』と思った。私が1983年8月にマッチメイカー就任を猪木さんに命じられたとき、『マッチメイカーという立場があること自体、ケーフェイだぞ』と言われた。でも、たけしさん云々の猪木さんの言葉には『そうですか』と言うしかなかった。しばらくして、TPGがマスコミで話題となり、私は『猪木さんが言っていたのはこれか』と思いました」

マッチメイカーの高橋氏に具体的な相談はなく、TPGは水面下で進行した。しかし、お笑いタレントのプロレスへのかかわりに辟易していたファンは、拒否反応を示す。というのも、大阪での暴動事件直後の4月、従来の「ワールドプロレスリング」が「ギプUPまで待てないワールドプロレスリング」に新装され、試合会場と山田邦子らお笑いタレントをスタジオに集めたバラエテイという二元中継を見せられ、散々に懲りていたからでもある。

TPGの参謀役を務めるマサ斎藤と、たけし軍団ガダルカナル・タカ、ダンカンがセミのリング上で猪木にベイダーとの一騎打ちを直訴。猪木が登場して、この訴えを聞き入れ、リング上からカード変更を観客にアピール。斎藤&ベイダーVS藤波&木村戦はベイダーが長州に代わり、この試合の後、猪木VS長州、猪木VSベイダー戦が行われた。

「控室では猪木VSベイダーで猪木さんが取られるという段取りで、猪木VS長州は最初から行う段取りにはなっていませんでした。当日、たけし軍団の挑戦を猪木さんがサプライズで受けたのは、ファンがワーッと喜ぶと思ったからでしたが、とんでもない。まったくの逆で大ブーイングだった。そういえば、控室でたけし軍団ガダルカナル・タカさんに「大丈夫でしょうか?」と不安気に言われましたよ。タカさんはそれ以前にも、両国のリングに猪木さんへの挑戦状を持って(同年12月4日)、ダンカンさんと一緒にリングに上がりましたが、帰れコールを浴び、プロレスファンが殺気立っていることを感じていた。私はタカさんに「セコンドが守りますから、心配しないで下さい」と言いましたが」

長州&斎藤VS藤波&木村戦は6分ほどで長州が木村を抑えて、試合を終了するも、試合開始から5分以上、止めろコールが響き、リングにはモノが投げ込まれた。

「猪木VS長州をやらなければ収まりがつかないから、混乱のなか、私は控室に行き、猪木さんと長州に試合をするよう頼んだ。アングルはリング上で指示する、とにかく早く上がってくれ、とお願いしました。どのタイミングで控室に行ったのかは記憶にないのですが」

ノンタイトル戦で試合は挙行。猪木が長州をダルマにし、高橋氏が馳浩に乱入させる指示を出
し、猪木の反則勝ちとしたが、つづくベイダーとの一騎打ちで猪木は一方的に攻め込まれ、3分弱で3カウントを奪われる。


カード変更、試合内容の物足りなさに試合後、消化不良のファン3000人は一時間近く経過し
ても帰らない。
猪木が収拾をつけるべく、リングに登場するも、マイクを通じて放った第一声はなぜか、「みなさん、ありがとうー!」。
続けて、「今度は長州、ベイダーと正々堂々と勝負します!」と言ったが、これぞ後の祭り、火に油を注ぐのたとえだった。ファンは暴徒と化し、椅子をはじめ館内の器物を破損する行動を始め、リングにはありとあらゆるモノが投げ込まれた。田中リングアナはリング上で土下座して謝罪し、事態の沈静化を図った。

「猪木さんが挨拶する前でしたか、『高橋さん、急いで帰ってくれ』と坂口さんから言われたのは。『混乱の原因はレフェリーにもある!』というファンの標的にもなるから、と心配してくれた。夜中、坂口さんから自宅に電話があり、『明日、ファンの代表だというのが事務所に来るから、俺が対応するよ。うまく話をしておく』と言うので、『審判部長の私も行きますよ』と言ったら、『冗談じゃない。高橋さんが来たらもめにもめて、収まるものも収まらなくなるから』と言われました」

第2回IWGP勝戦後の混乱と同様、坂口は高橋氏の身を案じたのだった。翌日、坂口はファン代表との面談で、フェンスアウトのルールの撤廃を要望され、了承した。

「『ファンの要望も少し聞いて、収めるより仕方なかった』と坂口さんから報告がありました。ファンの言い分を聞いて、ルールを変えたのには私としても言いたいことはありましたが、坂口さんも切羽詰まって、そうせざるを得なかったのか、と考えました」

国技館の椅子の破損は57脚、200万~300万円の弁償費用となり、国技館の使用自粛が相撲協会との話し合いで決まった。自園は1989年2月22日の興行まで、1年2カ月もの間続いた。1988年、年頭の「新春黄金シリーズ」における2月4日の大阪大会で、猪木VS長州のIWGP戦が実現。卍固めからのレフェリーストップで猪木が王座を防衛したが、内容は名勝負の評価
を受けた。両国での一件もあり、ファンもマスコミも注目したことが、両雄に好ファイトをもたらしたのは否定できないところだろう。

当時としては最悪のシナリオであったが、今となって思えば、懐かしい記憶である。

大会場で行われた試合でも「どんな試合だったっけ?」と時間の経過のなかでファンの記憶も確実風化してゆくものだが、3大暴動事件は今もってファンに語り継がれ、猪木の名前と共に名勝負ならぬ迷勝負として生々しい憎悪の記憶として残っている。これも猪木イズムのひとつと私たちは釈義するべきなのかもしれない。