《僕と新日本プロレスと》新日本プロレスのブログ

主に80年代、90年代の新日本プロレスのアングル、名言を書いたブログです。

「猪木VSアリ」世紀の一戦

1976年6月26日土曜日に行われた猪木対アリ戦の当時の評価は 「世紀の凡戦」だったと言う。確かに今、見てみても退屈な試合に見えてしまう。

そもそも、この対戦が実現するきっかけとなったのは、1975年3月にアリが当時の日本レスリング協会の八田一朗会長に「100万ドルの賞金を用意するが、東洋人で俺に挑戦する者はいないか」と発言したことである。

無論これはアリお得意のリップサービスだったのだが、そこに猪木が挑戦を表明したのである。世間はこれをまともにとらえず、アリも一度は挑戦を受諾するも、マネージャーたちがそれを撤回するなど、世界的に知名度の低いレスラーとの対戦を回避しようとする動きをみせた。しかし、猪木がアメリカやヨーロッパのマスコミにアピールしつづけたことで、その反響が大きくなり、アリ側もこれを受けざるを得ない状況となった。1976年3月25日に調印式が行われ、対戦が正式決定。

当初、アリはこの試合をエキシビジョンマッチだと認識して来日したという。しかし、エキシビジョンでないことがわかると、アリ側はルールに対してさまざまな制約を課し、「要求をのまなかった場合は出場しない」と脅迫。猪木サイドはこれを受諾、その結果、投げや関節技はなし、立った状態での蹴りはなしなど、猪木にとって非常に不利なルールで試合が行われることになった。

当日、新間は猪木に鉄板入りのリングシューズを差し出して「アリのグローブは通常使われる8オンスでは無く、その半分の4オンスのようだ。しかも普通は試合前に控え室で相手にバンデージを見せ、問題が無ければ相手がサインをしてグローブをはめるのだが、アリはこれを拒否している。どうもバンテージに石膏を注射しカチカチに固めたようだ。こっちもシューズに鉄板を入れましょう」と進言した。
しかし、猪木は、「自分のブライドを傷つけるような姑息なことはしたくない。アリがグローブに石膏を入れているのならそれはそれでいい。俺は絶対にそんなことはしない」
ときっぱり言い放って、新間のアドバイスを蹴ってしまう。

いざ試合がはじまると、猪木はアリの足元にスライディングを敢行し、以降も寝た状態からアリの足を蹴りつづけた。対するアリは、猪木に立って来いと挑発するも、試合は膠着。そのまま既定のラウンドが過ぎ、引き分けに終わった。

試合後の猪木の顔を見るととても満足そうに見えた。猪木の中には、大一番をやり終えた達成感があったのではないだろうか。

アリは負ける訳にはいかなかった。もちろん、猪木も負ける訳にはいかなかった。試合後の二人が何人にも理解し得ない満足感を共有しても何の不思議もない。

猪木のおなじみのテーマ曲「猪木ボンバイエ」は、アリがあの試合の後、クランクインした主演映画「ザ・グレイテスト」の主題歌である。新間がこの曲を聴いて感動し、アリに「これを猪木のテーマ曲として使わせて欲しい」と頼んで快諾してもらったという曲だ。

猪木はこの曲を聞く度に「俺はアリといつも一緒にリングに向かい戦っているんだ」という気持ちになっていたのではないだろうか。それほど猪木にとってアリはれられない一戦だったはずだ。この一戦により、猪木はかつて体験したことのない借金を背負う羽目になり、アリはその後のボクシング人生が狂うほどのダメージを足に受けたが、お互いに誰も成し得なかった「未知への戦いに勇気を出して戦った」という満足感があったのではないだろうか。

試合終了後、猪木は控え室に誰一人入れず、泣いていたと言う。

当時は、かみ合わない試合内容から批判が相次いだ。しかし、現在では総合格闘技の原点として評価される一戦となっている。

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